2018年07月01日

「スポーツ観戦」

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今年はピョンチャンオリンピックに引き続き、サッカーワールドカップがロシアで開催され、連日熱戦の模様が報道されだんだん加熱している。去る6月28日に行われた対ポーランド戦はまさに筋書きのないドラマそのものだった。

 日本チームはポーランドに勝つか引き分けると決勝トーナメントに進出決定。もし負ければ同じ状況にあるセネガルの結果次第という状況で試合が始まった。セネガル対コロンビア戦も別会場で同時間にスタートした。

 前半の45分は緊迫した状況が続き、結局両会場とも0対0のまま休憩に入った。後半も一進一退が続いたたが、14分にポーランドが先制点をあげて局面が動いた。このままだと予選リーグ敗退となってしまうという状況に置かれ、何とか得点を奪い返さなければならなくなった。重苦しい時間が流れる中、29分に今度はコロンビアが先制点をあげたという報が入って来て状況がまた変化した。
 決勝トーナメント敗退が決まっているポーランドは日本に勝てばそれで良いし、一点差のまま負けても勝ち上がれるのならばそれがベストという状況が生まれ、会場から大ブーイングが興る中最終ラインで日本チームがパス回しをすることになった。

 およそスポーツマンシップの精神からは褒められた試合ではなかったが、人間の生き様をわかりやすく見せつけてくれた。おそらく多くの日本人の気持ちとしては、「正々堂々とやって予選リーグを突破して欲しい」と思っただろうし、当の監督選手が心情的にいちばん不本意だったようである。

 人間は本能的に「損か得か」を計算しながら生きていると、置かれた状況下で「どういう発言をすべきか?」「どう行動すべきか?」といつも計算してしまい、時に暴走する危険性もはらんでいる。
 以前のワールドカップで、ペルーの選手がオウンゴールして負けてしまうとその選手が帰国するや暗殺されるという悲惨な出来事があった。
 まさに今、ただ勝つことを最優先にするのではなくスポーツの原点に立って、あのような出来事を「他山の石」として、敵味方を越えてファインプレーを賞賛するような試合をしてもらいたい。
 その大前提として、まずは試合相手への敬意があって成り立つことだが。
posted by ryuouji at 17:38| Comment(0) | 日記

2018年06月01日

「真宗的思考」


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 仏教国タイの若いお坊さんが托鉢に回っている様子を画像で拝見することがある。
 日本でも浄土真宗以外の僧侶達は何らかの修行をしており、滝に打たれたり瞑想に耽る姿には、少し羨ましさや憧れの気持ちを持つ。修行の日々を送れば、在家生活に戻った時にも生涯にわたり様々な判断の助けになるように思う。

 一方、真宗では「得度」も「教師修練」も「住職修習」の際も修行といわれるような事柄はまったく行われない。それは教えの根幹にある「悪人正機」ということから出てくることである。

 しかし、宗祖の親鸞聖人が比叡山で二十年にわたり厳しい修行をされた後に、「雑行を棄てて本願に帰す」という遍歴を歩まれているのもまた事実である。

 キリスト教の聖書の中に、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ伝)とあるように一般の宗教では、行いと同時に心の持ちようがとても大事にされる。

 浄土真宗のお寺を預かりながら、どうしても矛盾に感じるのは「地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄2章)と言い表しているように救われがたい我が身の深い自覚を最優先にしてしまい、一人一人が身の事実と向き合う時間と作業が欠落しているのではないのかということだ。
 具体的にいうと、下手をすると「肉食妻帯」といった事柄に何の疑問も持たずに通りずぎる危険性を感じる。

 「真宗の教えは聞いても聞いても」わからんという皆さんの声は、聞かずにおれない思いの吐露でもあるが、同時にもうひとつの問題提起とも思われてしかたがない。
posted by ryuouji at 14:49| Comment(0) | 日記

2018年05月01日

「息子の結婚」

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 息子が結婚して、四月から新しい家族がふえた。育った環境が全く違うのでいろいろなトラブルがあるのかと思っていたけれど、逆に少し拍子抜けするところもある。子ど

も達が生まれて名前をつけた時に感じたことなのだが、ずっと前からその名前だったように思えるのである。今回も同じにように事実と感覚の時制がずれている。

 名曲「糸」は、「なぜ めぐり逢うのかを私たちは なにも知らない」という詞ではじまる。人生は全く不思議なであいの連続であるが、それをどう受け止めればいいのだろうか。その時のおかれた状況でずいぶんかわってくる。
 とても逆説的な事に、余命を宣告された途端に一日が突然重くなり目の前の人がとても愛おしくなる。

 息子とお嫁さんは、島根県の海士町で同じ仕事を通じてめぐり逢った。晩ご飯の時に「どうしてその仕事を知ったの?」と聞いたら、トロントの大学生の時に、ネット上で募集があることを知ったというのである。何ともグローバルな時代を生きていることだ。

 親鸞聖人は、「教行信証」の冒頭を、「竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船」というお言葉ではじめられる。そこには聖人万感の思いがこめられてあると思う。
 ある先生から聞いた説明によると、「竊かに」とは米粒の中に住むコクゾウムシがその穴から外の世界を盗み見るさまをさすそうだ。聖人が 、「竊かに」「難思の」と言葉をついやして説こうとされている世界に、息子たちと一緒に向きあいたい。
posted by ryuouji at 07:57| Comment(0) | 日記