2018年08月01日

「心が痛む」

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 蓮の花は六月の中旬から咲き始めるのだが、今の時期は競うように咲き誇り真夏の光によくあうように思う。肥料を施し、水の管理をすればちゃんと応えてくれる。言葉を交わさなくても気持ちが通じるようだ。

 先日、夜中に愛犬のランが吠えるので見に行くと、蜷局を巻いた蝮と対峙していた。とっさに近くにあったバケツに追いやり引き離した。ところが1時間ほど経つと、またなきだしたので見に行くと同じシチュエーションが再現されており、やむなく薬缶に熱湯を入れて掛けた。それから数日後、今度はきれいな赤蝮とまた睨めっこをしており、また熱湯を掛ける仕儀に及んだ。以前、散歩の途中に噛まれて動物病院で血清を打ってもらったからといくら言い訳をしても生きようとする命を殺めると何とも心が痛む。日常的に刺身や肉料理を口にするが、この私に代わって命を殺めてくれている人の存在はあえて思わないようにしている。

 三月に手術を受けてから五ヵ月が経ち、以前に比べガクンと体力が落ちたことを実感する。そんな中でふと思うことがある。それは三十年以上高校の教壇に立ち、毎年三百人以上の生徒達に授業をやってきたのだが、そこでは優しい生徒達がこの私を教師として認めてくれたから教職を続けられたのであり、その大前提に全く無関心であった自分に気づく。「生きているのではなく」て、「生かされている」のだと教えられてもななかか頷けない。でも病気や老いを通じてその事を実感出来るのならば病気も悪くない。

ここのところ、津久井やまゆり園の事件のその後やLGBTの人達への差別発言をする国会議員の報道を聞いていると、最も大切な事柄が何か欠落していると言わざるをえない。
 問題発言をくり返す人たちは自身が社会的弱者や少数者になることに思いが至らないのだろうか?

 人間の存在そのものがともに支え合いながら生かされていることに目がいけば、社会的に生産性の低い存在を抹殺しようとするあり方に対して、「ともに生きる」ことを模索する事こそが最大切なのではあるまいか。
posted by ryuouji at 13:19| Comment(0) | 日記

2018年07月01日

「スポーツ観戦」

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今年はピョンチャンオリンピックに引き続き、サッカーワールドカップがロシアで開催され、連日熱戦の模様が報道されだんだん加熱している。去る6月28日に行われた対ポーランド戦はまさに筋書きのないドラマそのものだった。

 日本チームはポーランドに勝つか引き分けると決勝トーナメントに進出決定。もし負ければ同じ状況にあるセネガルの結果次第という状況で試合が始まった。セネガル対コロンビア戦も別会場で同時間にスタートした。

 前半の45分は緊迫した状況が続き、結局両会場とも0対0のまま休憩に入った。後半も一進一退が続いたたが、14分にポーランドが先制点をあげて局面が動いた。このままだと予選リーグ敗退となってしまうという状況に置かれ、何とか得点を奪い返さなければならなくなった。重苦しい時間が流れる中、29分に今度はコロンビアが先制点をあげたという報が入って来て状況がまた変化した。
 決勝トーナメント敗退が決まっているポーランドは日本に勝てばそれで良いし、一点差のまま負けても勝ち上がれるのならばそれがベストという状況が生まれ、会場から大ブーイングが興る中最終ラインで日本チームがパス回しをすることになった。

 およそスポーツマンシップの精神からは褒められた試合ではなかったが、人間の生き様をわかりやすく見せつけてくれた。おそらく多くの日本人の気持ちとしては、「正々堂々とやって予選リーグを突破して欲しい」と思っただろうし、当の監督選手が心情的にいちばん不本意だったようである。

 人間は本能的に「損か得か」を計算しながら生きていると、置かれた状況下で「どういう発言をすべきか?」「どう行動すべきか?」といつも計算してしまい、時に暴走する危険性もはらんでいる。
 以前のワールドカップで、ペルーの選手がオウンゴールして負けてしまうとその選手が帰国するや暗殺されるという悲惨な出来事があった。
 まさに今、ただ勝つことを最優先にするのではなくスポーツの原点に立って、あのような出来事を「他山の石」として、敵味方を越えてファインプレーを賞賛するような試合をしてもらいたい。
 その大前提として、まずは試合相手への敬意があって成り立つことだが。
posted by ryuouji at 17:38| Comment(0) | 日記

2018年06月01日

「真宗的思考」


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 仏教国タイの若いお坊さんが托鉢に回っている様子を画像で拝見することがある。
 日本でも浄土真宗以外の僧侶達は何らかの修行をしており、滝に打たれたり瞑想に耽る姿には、少し羨ましさや憧れの気持ちを持つ。修行の日々を送れば、在家生活に戻った時にも生涯にわたり様々な判断の助けになるように思う。

 一方、真宗では「得度」も「教師修練」も「住職修習」の際も修行といわれるような事柄はまったく行われない。それは教えの根幹にある「悪人正機」ということから出てくることである。

 しかし、宗祖の親鸞聖人が比叡山で二十年にわたり厳しい修行をされた後に、「雑行を棄てて本願に帰す」という遍歴を歩まれているのもまた事実である。

 キリスト教の聖書の中に、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ伝)とあるように一般の宗教では、行いと同時に心の持ちようがとても大事にされる。

 浄土真宗のお寺を預かりながら、どうしても矛盾に感じるのは「地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄2章)と言い表しているように救われがたい我が身の深い自覚を最優先にしてしまい、一人一人が身の事実と向き合う時間と作業が欠落しているのではないのかということだ。
 具体的にいうと、下手をすると「肉食妻帯」といった事柄に何の疑問も持たずに通りずぎる危険性を感じる。

 「真宗の教えは聞いても聞いても」わからんという皆さんの声は、聞かずにおれない思いの吐露でもあるが、同時にもうひとつの問題提起とも思われてしかたがない。
posted by ryuouji at 14:49| Comment(0) | 日記