2016年08月01日

「永遠の今」

8月.JPG


この頃は毎朝、澄んだ空気の中から聞こえてくるお念仏の声で目が覚める。散歩の途中に山門で立ち止まり、合掌念仏をされるNさんの声は何とも忝なくももったいない。
 長年聞法を重ねられた方々の称名からは、邪念が少しずつ消えてゆくように感じられる。

 念仏とはもちろん仏を念じるわけだが、同時に仏から念じられていると教えられると、念仏の響きは日頃の思いを突き破り、日常的な時間とは別の時間が現出するように思われる。

 同朋新聞の6月号に、銀行マンであった黒沢大司さんという方が念仏とのであいを語っている。
 その冒頭に自らの過去を振り返り、「自分にとって損か得か、また好きや嫌い、そして、世間体という三つのトライアングルでずっと生きて来たのです。」と述懐されている。

 これは黒沢さんだけの問題ではなく、すべての人に当てはまる事柄だと思う。三つのトライアングルとは人間の持つ欲望そのものであり、それが肥大化してゆくと「役にたたない人間は存在する価値がない。」といった考え方にも通じてゆく。今も絶え間なく世界中で頻発するテロ行為の基にあるのは、自分よがりの思いこみでである。

 「○○でない者は生きる値打ちがないと。」といった意味の発言が高学歴で社会的にも高い地位にある人から聞こえてきたり、逆に社会的に弱い立場の人が自己を卑下してこういう事を言ったりするのを耳にしてとても違和感を感じるのは私だけではないと思う。

 仏様から願われている眼差しは、「いのち生きらるべし」ということであり、いのちの絶対的平等がそこにはある。

 俗世界にどっぷりつかっていると、いつも何かが成就すれば幸せになれると思われる。しかし容易に成功することもかなわず適当なところで妥協するしかない。たとえどんな成功を手にしたところで、豊臣秀吉の辞世といわれる「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」となるのではあるまいか。

 お経を読んでいると、「今」という言葉が随所に書かれている。そこに説かれているのは日常的な時間の流れの中にある「今」ではなくて、仏様から願われている自分に目覚めた時のことではないだろうか。きっとそこには「あなたはあなたのままでいい」と存在をまるごとみとめられる世界、「永遠の今」ともいうべき世界が広がっている。

 お経に出てくる「命濁」(いのちが粗末に扱われる事態)がもうこれ以上進んでほしくない。
posted by ryuouji at 10:15| Comment(0) | 日記