2017年05月08日

「坊守のひとりごとH」

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 4月に息子が帰って来た。正確には帰らせた。好きなことをして良いが、30歳になったら寺に帰れという約束を守ってだ。18歳で家を出て、京都の大学で学生生活を送り、東京でサラリーマンを経験し、途中から島根県で働いていた。
 十二代住職の父は農業を十三代住職の夫は教員を兼業しながら寺を守ってきた。さて、十四代はどう立ち向かうのであろうか。

 過疎化の進む田舎の小さな寺であるが、「寺を守ること」はイコール「地域を守ること」だと私は思って来た。「地域を守ること」は県や国を守ることにつながっていると思っている。点の集まりが線になり、線の集まりが面になる。ひとつひとつの小さな点がとても大事だと思っている。そして、私もその一つの小さな点である。さて息子がこの地でどんな点になるのだろうか。
posted by ryuouji at 11:39| Comment(0) | 日記

2017年05月01日

「遊びをせんとや」

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教員生活を終えて早や五年が経った。当時を振り返って思うことだが、いつも何かに追い立てられているような日々をおくっていた。
 教壇から生徒達に向かって、「努力をすれば必ず報われる。結果が出ないのであればさらに努力を重ねなさい。」と言い続け、自分自身もそう信じていた。ところが現実はそうそう甘くはなく、いつも挫折感を味わった。

 この頃、後白河法皇が編纂したと伝えられる「梁塵秘抄」に収められている「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ(第539首)」という一首が思われる。

 この歌は年輩の人が、子供達の無邪気に遊ぶ様をみて自身の子供時代を思い、また純粋な心にふれて心が癒されるといったことが述べられているのかなと思っていた。

 ところが今は、「遊びをせんとや生まれけむ」という言葉はあの心にゆとりのない日々を送った自分への警鐘に思われれきた。

 初老の人の口から、「つまらんごとなった」と聞かされる機会が多い。機械も長年使えば経年劣化するように、人間の体も劣化が進み、物忘れが多くなるのは当然のことである。「順調に年を重ねていますね。」と言うべきところだがなかなか言いずらい。それば自分自身も同じ思いを抱いており、病気が進行して薬が増えると正直気持ちが重たくなるからだ。

 「いつまで生きてもよし いつ死んでもよし」と頷けると、「遊びをせんとや生まれけむ」という言葉は人生を教えてくれる言葉に変質するのだろう。
 「人生=遊び」というのは決して不真面目な事ではなく、誰しも生かされて生きている限り、何があっても何が起ころうともそれを正面で受け取る事だと思う。

 年を重ねることは、今まで出来ていた事が出来なくなるといったマイナス側面もある。しかし、それにもまして今まで見えなかった事が見えてくるというプラスの側面があるようだ。

 「わが身さへこそ揺るがるれ」という言葉は、謂わば未体験ゾーンへ入ってゆくワクワク感を表現していると思われる。
posted by ryuouji at 10:55| Comment(0) | 日記