2018年04月01日

「父を思う」

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ちょうど10年前、心臓の冠動脈にステントを入れる手術を受けた。それ以降定期的に検査をうけて来たが2月の検査入院で、「この状態だといつ心不全を起こしてもおかしくない」と診断され、3月1日に心臓バイパス手術となった。

 麻酔から目覚めて3日間は、痛みでなかなか眠れなかった。すると日頃はあまり深く考えることのない今は亡き両親や祖母や姉のことが次々に思い浮かんで来た。

 父はフィリピンで終戦を迎え、アメリカ軍の捕虜となり翌年ようやく帰国した。身も心も深く傷ついた父をまっていたのは二人の弟たちの戦死のしらせであった、その上祖父も帰国を待っていたかのようにまもなく亡くなっていった。自分が父の立場に立たされたらとても平常心を保てない。やがて母が嫁いできて昭和23年秋に姉が生まれ、晴れ渡る空を見て「やっと戦争が終わった」と感じたそうである。
 父は寡黙で、あまり多くを語らなかったが、言葉より行動でいろいろ奉仕する人だった。

 子供の頃、当時は花嫁さんは必ず打掛を着て本堂にまいって来たが、父は当時まだ珍しいは写真機で何枚も撮って、自分で作った暗室に籠もり徹夜で現像作業をし、記念にプレゼントしていた。小学校のPTA会長も長く務め、よく学校にやって来て子ども達の姿をたくさん撮っていた。
 村の子供会の世話や、保護司に民生委員といった役も長くやっていたことを考えると、とても「人が好き」な人だったのだろう。

 実にここ崎山から出征して戦死した方々は30名を数える。そして、残された人々の中には癒されることのない大きな大きな悲しみが後に残った。
 幼子を抱えて未亡人となった方々や、大事な息子達を亡くした母親の悲しみと父はその生涯をかけて向き合った。私が子どもながらに感じた事だが、生きて還って来た父にしか出来ないことだったろうし、自らにそれを課したのだと思う。

 祖父が亡くなってから、50年以上の長きにわたり住職を務めたのだが、そこには父を支えた多くの念仏者がいた。ともに仏様の悲しみを確かめ合った、にこやかな笑顔のお爺さんやお婆さん達は私にとっても懐かしい。

 父とともに念仏を生きた先達が歩んだ足跡は、私には本当に大きすぎる。

 今回、入院手術という機会を与えられたのは、「これからの人生をもう一度問い直せ」との父からの厳しい催促であると受け止めたい。
posted by ryuouji at 14:38| Comment(0) | 日記