2018年10月01日

「目的と目標」

柿の実.JPG

先月、司法試験の合格発表がありM君から「合格しました」といううれしい知らせをうけた。彼は退職した年に教えた最後の学年の生徒だった。三年前に法科大学院に進んだときも今回も、「先生のおかげで法律の面白さを知り、この道に進みました。」と言われあらためて教師になってよかったと思った。

 一週間ほどして訪ねてきてくれ、ゆっくり話すことが出来た。彼が苦笑いしながら話してくれたのは、合格してから新聞の取材をうけたが、記者は何か物語を作りたがるけれど自分はただ勉強が楽しいから受験しただけで記者の要望には応えられなかった、というのである。ちなみに新聞記事には「高校で、法学部出身だった社会科の先生の話の面白さや考え方に共感し法学関連の学部を志したという。」と書かれていた。

 サッカーが大好きなスポーツ少年が、勉強の面白さを知ってのめりこんでいった様こそドラマチックだったのにそのことは記事にはならないのだなと一人思う。

 考えてみると、社会的地位や人々の評価は結果的にあとからついてくるものなのに、そのものが目的化されることが多々あるようだ。

 新潟県に小林ハルさんという瞽女(ごぜ)がおられた。彼女は生後三ヵ月の時に失明し、五才から瞽女修行をはじめ百年にわたり(百五才で老衰のために亡くなった)瞽女を生きた人である。昭和五十四年には「人間国宝」に認定され広く人々に知られるようになった。聞くところによると、新潟・山形・福島の山村を歩いて回り、三味線を弾き門付けをしたそうで、歩いた距離は実に地球十周というから驚いてしまう。数人で移動したようでその事を「良い人と歩けば祭り 悪い人と一緒は修行」と述懐されている。

 壮絶な人生を支え貫いていた信念は、常に神仏から見守られて生きているという思いであり、深い宗教心に支えられた人生がそこにはある。

 以前「明日という言う字は明るい日と書くのね」という歌が流行ったことがある。誰しも、今が辛いと感じるときには当然のように今よりも楽しい明日を思ってしまう。しかし、現実はむしろさらに辛い日々がまちうけているというのもまた人生である。
 ハルさんが辛い現実を「修行」と受け取り、一日一日を力強く生きた姿にこそ人間の品性を感じる。

 M君がこれからも初心を忘れず勉強を重ね、人格が磨かれ社会に有為な人材に成長していってくれる事を願うばかりだ。
posted by ryuouji at 23:30| Comment(0) | 日記