2016年11月01日

「あとに生まれるひとは」

コスモスA.JPG


十日ほど前、車を運転しながらラジオのスイッチを入れたら、鮭の稚魚を放流している方がお話をされていた。

 放流した稚魚のうち回遊を終えて帰って来るのは1,500匹に一匹くらいだという。河口から生まれた故郷を目指して遡上してゆくのだが、その間一切食べ物を口にすることはない。急流や浅瀬を泳ぐ内に鱗ははかれ落ち、ヒレは裂けたり千切れてゆく。産卵の地点に帰りつくと砂を巻き上げようやく産卵を始める。それが終わると精根尽き果てて一生を終えてゆくと説明された。

 この放送を聞きながら思ったのは、親鮭の「死」は厳粛な自然の営みであり決して寂寥感を伴うものではないし、銀杏や紅葉の葉っぱがその役割を終え、風に散ってゆくにも似て美しくさえある。

 一方、現代を生きる私たちが迎える「死」はどうであろうか?

 つい権力や富の蓄積に目を奪われると、生きる意味と方向を見失いがちになるかもしれない。しかし、時代がどんなにかわっても親鸞聖人が示して下さっているいのちの願いに立ち返れば喜びの中に生ききれると信じたい。

 教行信証の後序といわれる最後に聖人は「安楽集」の中から「前に生まれん者(もの)は後を導き、後に生まれん者(ひと)は前を訪え、」という言葉を引用している。ところが後半の言葉には二重の加工がなされている。

 一つは「去く(ゆく)」という原文をあえて「生まれん」と書き換えており、さらに後半の「者は」を「ひとは」と読ませている。そこには親鸞様が現代を生きる私たちにかけてくださった大きな願いがこめられていると思う。

posted by ryuouji at 12:12| Comment(0) | 日記
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