2017年02月01日

「ふるさと」

梅.JPG


ふるさとを漢字で表記すると、「故郷」・「古里」・「旧里」などと書かれるが、生まれ育った土地・なつかしい場所・帰りたい場所といった意味を持つ。

 ここ数年、お墓のことで相談を受けることが多い。実家のお墓をみる人がいないとか、次の代がいなくて無縁仏になってしまうという内容だったり、時には自分の墓をどうしようかという場合もある。

 都会の納骨堂や樹木葬とか個人墓などの広告を見て出かけてもなかなか「しっくりこない」とのことである。

 皆さんのお話を伺っていると、何だか安心出来る「場所」を求めているようで、その実亡き人と安心出来る
「関係性」を求めているように感じられる。

 先月の11日、朝日新聞の「折々のことば」に北方謙三氏の言葉が紹介されていた。いわく「覚悟ってのは、どこかでぽきりと折れちまったりする。納得ってのは、どんなに曲げられても、折れやしねえんだよ。」と。
 この記事を読んでとても頷けた。「覚悟」が頭でわかろうとするのに対して、「納得」は体全体で了解するように思う。両者はずいぶん次元が違うようだ。

 お墓の問題はただ場所の問題ではなく、人間の深い願いと関係するように思う。いわば納得できる「ふるさと」を探す延長線にその本質があるのではなかろうか。

 毎月、両親が眠る祖廟でお勤めをしながら感じるのは、そこにはとても贅沢な時間が流れ、新しい一歩をふみ出す力をもらえると感じる。今朝も、自家製の梅干しとめざしを焼いて食べ、とても幸せな気持ちになった。
posted by ryuouji at 15:40| Comment(0) | 日記
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