2017年06月01日

「来し方行く末」

紫露草.JPG

  昭和二十七年生まれの私と妻は、今年六十五才を迎える。基礎年金の支給が始まり、健康保険証が変わり、いよいよ高齢者の仲間入りする。

 来し方を思えば、亡き父は二度の召集に応じて二十代の日々の大半を戦場で送り、毎日「死」と隣り合わせの日々を過ごした。私は父のような過酷な日々を経験するすることもなく、困窮にあえぎ食べるものに事欠くといった事もなかった。
 これもただ運が良かったと片付けられるのではなく、そこには先人の大きな歩みがあってこそと思う。

イソップ寓話のひとつに「アリとキリギリス」というお話がある。夏の間、アリたちは冬の食料を蓄えるために働き続け、キリギリスはバイオリンを弾き、歌を歌って過ごす。やがて冬が来て、キリギリスは食べ物がなくてこまるのである。
 説得力のある話であり、過去が現在を規定し、現在が未来を決めてゆくというのはいわば当たり前のことだ。

ところが、お経の中の時系列は「過去→現在→未来」ではなくて、「過去→未来→現在」と説かれている。観無量寿経の中には「過去未来現在 三世諸佛 浄業正因」という言葉が出てくる。
 私なりに思うことは、ただ自分の思いを実現するだけに終始するのではなくて、自分に願われている事柄をこそ中心に据えれば、見えてくる世界もかわると説いているのではあるまいか。

 詩人・金子みすゞの「大漁」の中に
  「浜はまつりのようだけど 海のなかでは何万の 鰮のとむらいするだろう」という言葉がでてくる。常に仏様の目差しを感じながら生きた金子みすゞならではの詩である。

これから未体験の行く末を生きるにあたり、なりたい自分にプラスして願われている事柄は何かを思い、それを父と母に問いながら歩を進めたい。
posted by ryuouji at 06:22| Comment(0) | 日記
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