2017年07月01日

「いし・かわら・つぶて」

柘榴.JPG

 土産ものを差し上げるときなどによく、「つまらないものですが・・・」と言った表現をする。日本人独特の謙譲語であり、それはそれで親密な人間関係を維持してゆくことに役立っていると思う。

 ところが、法然上人が、「愚痴の法然房」と自称されたり、親鸞聖人が「愚禿」と称されるのは謙譲表現とは全く異なるようだ。

 先月、在住のみやこ町で囲碁の本因坊戦が行われ、その前夜祭にも参加する機会を得た。挨拶に立ったプロの棋士が自身のタイトル戦での経験を話された。「対局中にふと対戦相手がミスをしてくれないかなと思ったりすることがあるが、その時はとても恥ずかしくて情けなくなる。」というのである。つまり、形のうえでは対戦相手と打っているのだが囲碁の神様が見てくれている中で最善の一手を模索し続けているというのだ。

 自分自身も感じることだ。ずっと四人の子供達を「育てて来た」と思ってきたが、この頃はこの私の方が「育てられていたのだろうか?」と思うことがふえてきた。

 親鸞聖人の書かれたものの中に(唯信抄文意)に、「さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。」という言葉がある。つまり、一部の選ばれた者を除いて大多数の者たちは、世間的な評価も自己評価とも価値のないものと蔑まれていると仰っている。「勝ち組」「負け組」という表現が定着している現実代社会は八百年前と何ら変わるところがない。

 聖人は続いて、「如来の御ちかいを、ふたごころなく信楽(しんぎょう)すれば、摂取のひかりのなかにおさめとられまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまう」とおっしゃる。本願の教えは、すべての命はみな掛け替えのないものだという絶対的肯定を働きかけてくると。

 「愚禿」という名告りは、どこまでも健康とお金にすがろうとする我が生き方への厳しい問いかけだと受けとりたい。
posted by ryuouji at 13:51| Comment(0) | 日記
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