2018年06月01日

「真宗的思考」


せっこく.JPG

 仏教国タイの若いお坊さんが托鉢に回っている様子を画像で拝見することがある。
 日本でも浄土真宗以外の僧侶達は何らかの修行をしており、滝に打たれたり瞑想に耽る姿には、少し羨ましさや憧れの気持ちを持つ。修行の日々を送れば、在家生活に戻った時にも生涯にわたり様々な判断の助けになるように思う。

 一方、真宗では「得度」も「教師修練」も「住職修習」の際も修行といわれるような事柄はまったく行われない。それは教えの根幹にある「悪人正機」ということから出てくることである。

 しかし、宗祖の親鸞聖人が比叡山で二十年にわたり厳しい修行をされた後に、「雑行を棄てて本願に帰す」という遍歴を歩まれているのもまた事実である。

 キリスト教の聖書の中に、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ伝)とあるように一般の宗教では、行いと同時に心の持ちようがとても大事にされる。

 浄土真宗のお寺を預かりながら、どうしても矛盾に感じるのは「地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄2章)と言い表しているように救われがたい我が身の深い自覚を最優先にしてしまい、一人一人が身の事実と向き合う時間と作業が欠落しているのではないのかということだ。
 具体的にいうと、下手をすると「肉食妻帯」といった事柄に何の疑問も持たずに通りずぎる危険性を感じる。

 「真宗の教えは聞いても聞いても」わからんという皆さんの声は、聞かずにおれない思いの吐露でもあるが、同時にもうひとつの問題提起とも思われてしかたがない。
posted by ryuouji at 14:49| Comment(0) | 日記
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