2017年09月01日

「無明長夜の燈炬」

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九月を迎えた途端、今朝は寒くて目が覚めた。季節は確実に移ろい、わが身も着実に老化してゆく。

 以前、作家五木寛之氏が新聞に親鸞聖人の御一生を小説というかたちで連載された。その中で四十歳代の聖人が関東の人々に教えを説いて行かれた様を次のように描写している。

 人々の中から、念仏をすると「亭主の大酒と浮気はなおっけ」と問われて「それはわからぬ」と答える。すると「なんでぇ。けっきょく、念仏はなんの役にもただねえのか」ということになる。
 商売繁盛や病気の平癒を願う人々に対して、聖人は九歳の時に体験したことを語り始める。稚児僧として比叡山にはいってまもなく急ぎ横川の宿坊まで荷物を届けける役を引き受けた話だ。
 夕刻に出発しやがて途中で夜になり、険しい山道のなかついに身動きもできず、叫び声もでなくなる。そのとき、空から青白い光がさしてきて、あたりをくっきりと照らし出した。「月の光があたりを照らしたからといって、背おっている荷物が軽くなったわけではない。だが坐りこんでいたわたしはたちあがり、歩きだすことができた」と書かれている。
 おそらく史実というより五木氏の創作であろうが、私はこの部分を読んで、正像末和讃の35首にある「無明長夜の燈炬なり 智眼くらしとかなしむな 生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ」といううたを思い浮べた。聖人は念仏をいわばいつ明けるとも知れない闇夜を照らす燈炬であり、大海原の中の船筏であると仰っている。

 食糧難に苦しむ国への支援のあり方について、食べ物を送っても一時的なことで、一歩間違うと要求がエスカレートすることすらあるという。恒常的な本当の支援は食糧生産の為に一緒に汗を流すことだという。

 いつの世も、苦しみの中にあると人はつい、自分に都合のいいように環境を変えようと求めるのだが、念仏が教えてくれる生き方はどうも逆のようである。
posted by ryuouji at 18:14| Comment(0) | 日記

2017年07月29日

「無碍の一道

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 先週、小倉で朝6時から開講される暁天講座になんとか四日間出席する事ができた。毎日四時半に出発できるのか、少し心配だったが講師の先生の熱意に推し出された感じだ。今年の講題は歎異抄七章。

 冒頭、昨年息子さんを自死というかたちで失った自らの体験をありのままに語られた。苦しみの中で、安穏に人生を終えたら決して気づくことのない「願力自然」なる仏様の働きに出遇い、「死んでくれてありがとう」と言えるようになったと仰った。激しく鳴く蝉の声も全く気にならなかった。

 そして四日目の最後に、岡山の国立ハンセン病療養所長島愛生園に暮らしておられるの田端明さんが最近つくられた詩を紹介して下さった。
 現在96歳とのこと。30年ほど前にお会いしたときにはまだ目が見えていたが、今は全盲となられ、指の感覚もなくなられ、点字を生き残っている舌の感覚で読んでおられるそうだ。
 「生」という詩には次のように綴られている。

得がたき人間に  生まれさせていただいたのだから
生き甲斐のある人生にして行こう 二度とないない人生だから
明るく生きて行こう  ハンセン病になったのだから
人生を見直して行こう  折角盲人になったのだから
問題の自分に問いかけて  心の目を開いて行こう
自然の法に生かされて居るのだから 生きるとは死ぬとは命とは 
何かを考えて行こう 与えられた命だから  
白骨の身になる迄の汗を拭きながら 法の鏡に照らされて浄土の道を
一歩一歩間違いなく踏みしめて行こう
良き種を蒔いて育てて  良き花を咲かせて行こう

 仏法は、その教えに深く頷いた人を通じて伝えられる事を思う四日間となった。
posted by ryuouji at 05:59| Comment(0) | 日記

2017年07月01日

「いし・かわら・つぶて」

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 土産ものを差し上げるときなどによく、「つまらないものですが・・・」と言った表現をする。日本人独特の謙譲語であり、それはそれで親密な人間関係を維持してゆくことに役立っていると思う。

 ところが、法然上人が、「愚痴の法然房」と自称されたり、親鸞聖人が「愚禿」と称されるのは謙譲表現とは全く異なるようだ。

 先月、在住のみやこ町で囲碁の本因坊戦が行われ、その前夜祭にも参加する機会を得た。挨拶に立ったプロの棋士が自身のタイトル戦での経験を話された。「対局中にふと対戦相手がミスをしてくれないかなと思ったりすることがあるが、その時はとても恥ずかしくて情けなくなる。」というのである。つまり、形のうえでは対戦相手と打っているのだが囲碁の神様が見てくれている中で最善の一手を模索し続けているというのだ。

 自分自身も感じることだ。ずっと四人の子供達を「育てて来た」と思ってきたが、この頃はこの私の方が「育てられていたのだろうか?」と思うことがふえてきた。

 親鸞聖人の書かれたものの中に(唯信抄文意)に、「さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。」という言葉がある。つまり、一部の選ばれた者を除いて大多数の者たちは、世間的な評価も自己評価とも価値のないものと蔑まれていると仰っている。「勝ち組」「負け組」という表現が定着している現実代社会は八百年前と何ら変わるところがない。

 聖人は続いて、「如来の御ちかいを、ふたごころなく信楽(しんぎょう)すれば、摂取のひかりのなかにおさめとられまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまう」とおっしゃる。本願の教えは、すべての命はみな掛け替えのないものだという絶対的肯定を働きかけてくると。

 「愚禿」という名告りは、どこまでも健康とお金にすがろうとする我が生き方への厳しい問いかけだと受けとりたい。
posted by ryuouji at 13:51| Comment(0) | 日記