2018年02月02日

「孤独との対峙」

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先月、芥川賞・直木賞が発表され、翌日の天声人語(1/19朝刊)に若竹千佐子さんの「おらおらでひとりいぐも」の書評が紹介されていた。
 主人公は74歳、夫が急逝し、愛犬をうしない子どもとも隔たり、孤独との対峙が始まるという内容で作者自身が「玄冬小説」と呼んでいるそうだ。

 早速買い求めて読んでみると、予想とは異なり主人公の桃子さんはとても逞しくしなやかに生きている様に感じられた。文中の一節、「周三が亡くなってからの数年こそ、自分が一番輝いていた時ではなかったのか桃子さんは思う。平板な桃子さんの人生で一番つらく悲しかったあのときが一番強く濃く色彩をなしている。」が記憶に残った。

 しかし、この主人公の様にみな強く生きれるのだろうか?翌20日の新聞に、イギリスのメイ首相が「孤独担当相」を新設したという記事を見つけた。イギリスでは7人に1人が孤独感を感じており、原因として「英国では、労働組合やパブ、教会などが伝統的に人々を結び付ける役割を果たしてきたが、数の減少や社会の変化により存在感は弱まっている。」と書かれている。さらに「英国家庭医学会によると、孤独な人は社会的なつながりがある人に比べて天寿を全うせずに亡くなる可能性が50%も高い」とも書かれている。おそらくこのような傾向は世界的な潮流なのであり、現代という時代の課題なのだろう。

 タバコ屋さんは自動販売機にとってかわられ、町の本屋さんは消えてしまい代わりにネット通販の宅配便が行き交う。
 人はより快適で便利なものを求めて来たはずなのに、ス-パーのレジに並んでもバーコードを読み取る音がするだけで、目と目を合わせて会話をすることもない。何とも皮肉なことに便利さと引き替えに大切な何かをなくしているようだ。
 メールを配信すると即座に返事の単語でかえってくるのは確かに便利ではある。でも愛しい人へ恋文をひたためてから返信を待つ間に、その人への思いがより醸成されてゆくといったことはない。
 桃子さんが孤独な状況の中にあっても、生きてゆけるのは幼い日を心豊かにばっちゃと過ごした過去があり、周三との濃密な日々があったからである。

 もし心を病んで天寿を全う出来ないという事態を現代社会が生み出しているのならば、なんとか変えてゆかねばならない。

 全国にコンビニよりも沢山ある寺院が、地域の人々が気軽に集う場としての機能を回復すれば今後その存在意義もより大きくなるようにおもうのだが・・・・・
posted by ryuouji at 19:48| Comment(0) | 日記

2018年01月01日

「急ぐべからず」

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暮れになると年輩の方々から、「歳をとると1年がとても早く感じられる」という言葉を聞かされる。私自身も「右同感」である。
 教員時代の経験では、5コマ以上の授業時間がある日は一日がとても長く感じられ、春休みなどで事務的な仕事をやっているととても時間が早く過ぎた。

 徳川家康の遺訓とも言われる、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし急ぐべからず」という言葉にある、「急ぐべからず」とはただゆっくり進みなさいという以上に、大切に一日一日を送るように諭しているのではあるまいか。

 生前、亡き母が遺言のように話してくれた事がある。母方の祖父が臨終の床にあるとき、「四人の子供達はまだ一人も結婚していないが、私はどうすればいいのですか?」と祖母が尋ねると、「そんなことは、ご縁があれば皆さんがどうにかしてくれる。それよりもお念仏相続を怠らずつとめなさい。」と答えたそうである。やがて「うちの娘をもらって下さい」という人があらわれ、妹たちも次々に嫁いで祖父の言ったとおりになったというのである。

 物事は期が熟すれば成就し、縁にふれれば動き出すというのが道理なのであろう。

 祖母が心配したように、この私もいろいろな不安な思いに悩まされる日々ではあるが、新年を迎えるにあたり祖父の残した言葉をもう一度聞き直したい。

 念仏の世界に身をおけば、どんな「重荷」であっても自分にしか背負えないと引き受けられ、いくら遠くても行き先が指し示されればたんたんと歩を進められるとの願いが祖父の言葉には込められていると思える。
posted by ryuouji at 13:46| Comment(0) | 日記

2017年12月01日

「以自業識為内因」

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 神奈川県座間市のアパートで9人の遺体が見つかるという事件が起こり、新聞やテレビで報道がされている。
 11/19の新聞記事に容疑者の過去の発言として、父親に「何のために生きているのかわからない」とこぼした。と書かれている。
 まだ事件の全体に不明な点の多い状況ではあるが、その背景には、現代社会が抱える闇が潜んでいるように思える。

 反抗期に入った子供達から、「頼みもしないのにかってに産んで」などと言われると、なかなか的確な返答が出来ずに困っていた。「あなたはみんなから望まれ祝福されて生まれてきたのよ」と言っても今ひとつ迫力に欠けるのである。
 そんな時に、善導大師の観経疏序分義に書かれている「既欲受身、以自業識為内因、以父母精血為外縁、因縁和合故有此身」
( すでにみをうけんとほっするに、 みづからのごっしきをもつてないいんとなし、 ぶものしょうけつをもつてげえんとなして、 いんねんわごうするがゆえにこのみあり。)という言葉を教えてもらい、驚きとともにもやもやした思いが消えた。
 要は、両親が望む前にこの私の中にある深い思いがあって、両親を縁としてこの世に生まれ出たのである。

 人間は、「なぜ生まれて来たのか?」「死んだら何処に行くのか?」という問題に頷けないと前に進めない、何ともやっかいな存在である。

 「花は散るから美しい」のなら、「人は死ぬから愛おしい」と言い換えられると思う。自分がこの世に生を受けた道理がわかれば、もっともっと積極的な生き方を模索出来、利害損得だけに振り回される事から解放されるのではあるまいか。
posted by ryuouji at 19:14| Comment(0) | 日記