2017年05月01日

「遊びをせんとや」

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教員生活を終えて早や五年が経った。当時を振り返って思うことだが、いつも何かに追い立てられているような日々をおくっていた。
 教壇から生徒達に向かって、「努力をすれば必ず報われる。結果が出ないのであればさらに努力を重ねなさい。」と言い続け、自分自身もそう信じていた。ところが現実はそうそう甘くはなく、いつも挫折感を味わった。

 この頃、後白河法皇が編纂したと伝えられる「梁塵秘抄」に収められている「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ(第539首)」という一首が思われる。

 この歌は年輩の人が、子供達の無邪気に遊ぶ様をみて自身の子供時代を思い、また純粋な心にふれて心が癒されるといったことが述べられているのかなと思っていた。

 ところが今は、「遊びをせんとや生まれけむ」という言葉はあの心にゆとりのない日々を送った自分への警鐘に思われれきた。

 初老の人の口から、「つまらんごとなった」と聞かされる機会が多い。機械も長年使えば経年劣化するように、人間の体も劣化が進み、物忘れが多くなるのは当然のことである。「順調に年を重ねていますね。」と言うべきところだがなかなか言いずらい。それば自分自身も同じ思いを抱いており、病気が進行して薬が増えると正直気持ちが重たくなるからだ。

 「いつまで生きてもよし いつ死んでもよし」と頷けると、「遊びをせんとや生まれけむ」という言葉は人生を教えてくれる言葉に変質するのだろう。
 「人生=遊び」というのは決して不真面目な事ではなく、誰しも生かされて生きている限り、何があっても何が起ころうともそれを正面で受け取る事だと思う。

 年を重ねることは、今まで出来ていた事が出来なくなるといったマイナス側面もある。しかし、それにもまして今まで見えなかった事が見えてくるというプラスの側面があるようだ。

 「わが身さへこそ揺るがるれ」という言葉は、謂わば未体験ゾーンへ入ってゆくワクワク感を表現していると思われる。
posted by ryuouji at 10:55| Comment(0) | 日記

2017年04月01日

「めでたく候」

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ソメイヨシノの蕾が膨らんできたので、蓮の植え替え作業を行った。浮葉の芽とそれに続く2節ほどを植えて残りは輪切りにしてシチュウに入れて煮込んでみた。食感がよくてとても美味しかった。
 蓮の花は仏様の台座に使われており、仏教では古来大事にされてきた。ドングリのような実も煎って食べるととても濃厚な味がするし、葉っぱもお茶になり全く捨てるところがない。

 3日ほど咲いて、満開の花びらが一陣の風に散る様は本当に美しい。まさに「完全燃焼」という言葉が相応しい。

 では人間の生き様はどうであろうか?私自身の教員生活を振り返るとやり直せるのならばやり直せたいことがいくつかある。多分誰もが消してしまいたいと思える過去を抱えて生きていると思う。

 関東の御門徒から、明法房逝去の知らせを受けた親鸞聖人は「このたびの明法房の往生、まことにめでたく候。」と返事を書かれた。
 明法房が、かって山伏弁円であった時、「聖人を時々うかがいたてまつる」(御伝抄)と聖人の命を付け狙っていたのであったが、本願の教えに帰依して聖人の弟子となり関東での教化活動に専念したのであった。
聖人の命を付け狙った事実は、聖人にとっても弁円にとっても忌まわしい事柄のはずである。ところが「めでたく候」という言葉から感じられるのは、両者の中で事柄の質的転換がおこっている。後に「山も山 道も昔に変わらねど 変わり果てたる 我が心かな」と懺悔したと伝えられている。

 消してしまいたい過去があるのではなく、消してしまいたいと思っている我が心があることにどうしても頷けない。
 蓮の花を見ていると何とも救われがたい我が身の事実ばかりが浮き彫りにされてくる。
posted by ryuouji at 18:31| Comment(0) | 日記

2017年03月01日

「後悔すべからず候」

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  2月の13日、マレーシアの空港で発生した暗殺事件は連日マスコミで報道され続けている。だが真相はわからない事ばかりだ。
 世界史の教科書に登場する明の初代皇帝朱元璋を連想させる。とても猜疑心が強く、側近を信じられずに大粛清を行ったと書かれている。狡猾な肖像画は何とも忘れがたい顔である。
 暗殺という言葉を聞くと、文字通り人目につかない場所で犯行が行われるイメージだが、なぜ空港という監視カメラが設置された場所を選んだのか謎である。あえて世界にニュースを発信することを意図しているのだろうか。

 歎異抄の十三章には、聖人が唯円坊に向かい「何事も心にまかせたることならば、往生のために千人殺せと言わんに、すなわち殺すべし。しかれども一人にてもかないぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わが心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」と言われたと書かれている。そこには縁にふれれば何でもしでかす人間存在が明かされている。

 しかし、すべての人が権力の座につくと朱元璋と同じような行動に出るのだろうか?

 私の想像だが、親鸞聖人は比叡山ですごした二十年間に心から信頼出来る人に出会えず深い絶望の中で山を下ったのではないのだろうか。そして、吉水の草案で法然上人から専修念仏の教えをうけ、歎異抄第二章の「 たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、 さらに後悔すべからず候。」というであいをはたされた。
 我が思いに振り回される人間存在は全く信頼に値しないが、本願の教えに信順する人は何があっても決して人を裏切ったりしないという確信を法然上人の中に見いだしたように思う。
posted by ryuouji at 18:14| Comment(0) | 日記