2017年03月01日

「後悔すべからず候」

河津桜.JPG

  2月の13日、マレーシアの空港で発生した暗殺事件は連日マスコミで報道され続けている。だが真相はわからない事ばかりだ。
 世界史の教科書に登場する明の初代皇帝朱元璋を連想させる。とても猜疑心が強く、側近を信じられずに大粛清を行ったと書かれている。狡猾な肖像画は何とも忘れがたい顔である。
 暗殺という言葉を聞くと、文字通り人目につかない場所で犯行が行われるイメージだが、なぜ空港という監視カメラが設置された場所を選んだのか謎である。あえて世界にニュースを発信することを意図しているのだろうか。

 歎異抄の十三章には、聖人が唯円坊に向かい「何事も心にまかせたることならば、往生のために千人殺せと言わんに、すなわち殺すべし。しかれども一人にてもかないぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わが心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」と言われたと書かれている。そこには縁にふれれば何でもしでかす人間存在が明かされている。

 しかし、すべての人が権力の座につくと朱元璋と同じような行動に出るのだろうか?

 私の想像だが、親鸞聖人は比叡山ですごした二十年間に心から信頼出来る人に出会えず深い絶望の中で山を下ったのではないのだろうか。そして、吉水の草案で法然上人から専修念仏の教えをうけ、歎異抄第二章の「 たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、 さらに後悔すべからず候。」というであいをはたされた。
 我が思いに振り回される人間存在は全く信頼に値しないが、本願の教えに信順する人は何があっても決して人を裏切ったりしないという確信を法然上人の中に見いだしたように思う。
posted by ryuouji at 18:14| Comment(0) | 日記

2017年02月01日

「ふるさと」

梅.JPG


ふるさとを漢字で表記すると、「故郷」・「古里」・「旧里」などと書かれるが、生まれ育った土地・なつかしい場所・帰りたい場所といった意味を持つ。

 ここ数年、お墓のことで相談を受けることが多い。実家のお墓をみる人がいないとか、次の代がいなくて無縁仏になってしまうという内容だったり、時には自分の墓をどうしようかという場合もある。

 都会の納骨堂や樹木葬とか個人墓などの広告を見て出かけてもなかなか「しっくりこない」とのことである。

 皆さんのお話を伺っていると、何だか安心出来る「場所」を求めているようで、その実亡き人と安心出来る
「関係性」を求めているように感じられる。

 先月の11日、朝日新聞の「折々のことば」に北方謙三氏の言葉が紹介されていた。いわく「覚悟ってのは、どこかでぽきりと折れちまったりする。納得ってのは、どんなに曲げられても、折れやしねえんだよ。」と。
 この記事を読んでとても頷けた。「覚悟」が頭でわかろうとするのに対して、「納得」は体全体で了解するように思う。両者はずいぶん次元が違うようだ。

 お墓の問題はただ場所の問題ではなく、人間の深い願いと関係するように思う。いわば納得できる「ふるさと」を探す延長線にその本質があるのではなかろうか。

 毎月、両親が眠る祖廟でお勤めをしながら感じるのは、そこにはとても贅沢な時間が流れ、新しい一歩をふみ出す力をもらえると感じる。今朝も、自家製の梅干しとめざしを焼いて食べ、とても幸せな気持ちになった。
posted by ryuouji at 15:40| Comment(0) | 日記

2017年01月01日

「摂取不捨」

本堂花.jpg

新しい年を迎え願う事は、まず平和であってほしい。日本ではこの七十年ほど戦争の惨禍と無縁であるが、これも多くの尊い犠牲のうえに築かれた平和であるが、同時に今を生きる我々がずっと努力し続けないと保てないものだと歴史は教えている。
一方で民族紛争や宗教対立はむしろ冷戦後激しさを増し、出口の見えない状態が続いている。

 みなが笑顔で暮らせる日常生活をつい当たり前のように思いがちだ。だがそれは見えない大きな世界に支えられてこそである。

 かれこれ三十数年前、小倉の高等学校に勤務している時に、それまで現金支給だった給与が銀行振込にかわり銀行口座を作るように指示された。銀行に行くと通帳とともにカードを作りませんかすすめられ一緒に作った。

 カードが交付された日、たまたま立ち寄った大型スーパーに銀行のATMがあり早速使ってみた。ところがお客さんが列をつくっていてあせったのかカードをその場に忘れてしまった。まったく気もそぞろだったのか忘れたことを思い出すこともなかった。それから二週間ほどして銀行からカードが郵送されてきた。何ともあきれたことにカードの入れ物には大きな文字で四桁の暗証番号を自分で書いていた。

 何人もの人の手を煩わして本当に申し訳なくおもったが、同時にこんな不思議な出来事は、パリやニューヨークや北京といった諸外国でもあるのだろうかとも思った。

 我らの世代は、悪いことをすると誰も見ていなくても仏様はちゃんと見ておられると教えられて育ってきた。今もおまいりに行って念珠やお経本をしょっちゅう忘れて帰るがその日の内に皆さんが持って来て下さる。

 今や経済の世界は、カネ・モノ・ヒトが国境を自由に行き来する時代であり、いくら保護主義を掲げても一国だけの繁栄などありえない。

 経済的な繁栄に優先して、「あなたが救われないと私も救われない」という仏教精神を、多くの人が共有出来る時代であってほしいと思う。

 金子みすゞの詩「さびしいとき」の四句めには「私がさびしいときに 佛さまはさびしいの」と書かれている。彼女の豊かな感性は時を超えて我々に大切な事を語り掛けてくることだ。
posted by ryuouji at 16:11| Comment(0) | 日記